8/24/2014

グランドティトン国立公園 (Grand Teton National Park) その②

ロックフェラー2世の功績


ジョン・D・ロックフェラー・ジュニア (John D. Rockefeller, Jr.)は、石油財閥ロックフェラー家5人の子供の末っ子で一人息子でした。ここからはロックフェラー2世と呼ぶことにしましょう。
父親譲りの手腕で不動産業や金融業にも事業を拡大、財閥の資産をより大きくした功績よりも、慈善事業家あるいは自然保護運動家としての側面の方が注目されている人物ですね。
グランドティトン国立公園が現在の面積になるまでに、彼がどのように関わっていったのかが今回のお話です。
スネーク・リバーとグランドティトン
イエローストーン国立公園 (Yellowstone National Park)のすぐ南に位置するティトン山脈 (Teton Range)は、今から3〜4,000万年前に起こったロッキー山脈の造山運動により南北に形成された断層がずれ、断層の西側が約2,000メートル隆起したものです。
その後に訪れた氷河期の時代、繰り返される氷河の浸食により現在の山並みができあがりました。
そして氷河の移動で運ばれた堆積物がモレーンを作り、氷の溶けた後に湖が形成されました。これがジャクソン・レイク (Jackson Lake)です。
湖から南に広がる盆地平野はジャクソン・ホール (Jackson Hole)と呼ばれ、西部開拓時代から多くの入植者が農業や牧畜を営んでいました。
朝日に輝くグランドティトン
今でもこの広大な盆地の南端に位置する観光都市ジャクソン (Jackson)をジャクソン・ホールと呼ぶ地元の人々が多いのはこのためです。

イエローストーンが合衆国最初のそして世界初の国立公園に指定され、連邦政府の管理下に置かれたのは1872年のことでした。
1900年代に入ると、降雪の多い冬に園内のエルクが餌を求めて国立公園の境界線を超えジャクソン・ホールあたりまで南下するという実態から、イエローストーン国立公園の面積を南へ拡大しようという案が持ち上がります。
しかし牧場主や周辺住民から大きな反対運動が起こります。
地域住民と国立公園局との間で何度も公聴会が持たれますが、物別れという結果。
地域住民側はジャクソン・レイク・ダム (Jackson Lake Dam)の建設による農業用水の安定的な確保と大規模な民間開発が地域振興のかなめという見解、観光牧場などを中心としたレジャー地域の開発を望んでいました。
国立公園局の提案は、イエローストーンとは別に新たな国立公園を設けるというもの。
しかし、やがて1916年にはコンクリート製のダムが完成してしまいます。

1926年、ロックフェラー2世はアビー夫人と共にグランドティトン周辺を訪れます。当時のイエローストーン国立公園管理官で国立公園局を代表して公聴会に参加していたホラス・オルブライト (Horace Albright)とも交友を深めていきました。
やがて自然環境保護を共通の立場とする2人の間で奇抜な案が生まれます。
それは、ロックフェラー2世がグランドティトン一体の土地や牧場を密かに買収、国有地が国立公園になった段階でそれを国立公園局に寄贈するというものでした。
その後オルブライトは国立公園設立に向けて奔走、ロックフェラー2世は土地買収計画の実施に動きます。
1927年、ロックフェラー2世は個人の名前を伏せスネークリバー・ランド・カンパニー (Snake River Land Company)を設立、資金140万ドルで142㎢を買収するという計画を実行に移しました。
翌28年、地域住民が国立公園設立案に基本合意、1929年にグランドティトンは国立公園になりましたが当時の面積はわずか388㎢、牧場の多いジャクソン・ホール一帯とジャクソン・レイクはその中に含まれていませんでした。現在の面積の約1/3です。
ところが極秘に進んでいたスネークリバー・ランド・カンパニーの買収計画が1930年にスクープされてしまい、国立公園局はロックフェラー2世の土地の寄贈を断らざるを得ない状況に追い込まれてしまいます。ロックフェラー2世は、その後何年もの間ロビー活動での働きかけを試みますが、政治的な事情から寄贈は実現には至りませんでした。
1942年、ついに業を煮やしたロックフェラー2世はルーズベルト大統領に「このまま寄贈を拒否するのなら、買収地は全て市場価格で手放す」という旨の手紙を送りました。
驚いた大統領は「ロックフェラーがあの土地を民間に売却したら、すぐにリゾート開発が始まり、国立公園局の努力が水泡に帰す」と考え翌43年、急遽国有地894㎢を「ジャクソン・ホール国立モニュメント (Jackson Hole National Monument)」に指定します。何と国立公園と国立モニュメントが隣接するという前代未聞の状況になったのです。
*National Monumentを国定公園と訳すガイドブックも多いが、正式には国立モニュメントと呼ぶのが正しい

ちなみに国立モニュメントは大統領が独自の判断で定める事ができる特権で、議会での承認はもちろん州政府・地方自治体の認可は一切必要ありません。当然ながら州権の侵害だと議員たちも猛烈に反発、大規模な国立モニュメント指定反対運動が繰り広げられることになってしまいました。
ついには国立モニュメント廃止もろとも国立公園の認定も取り消そうという法案が議会を通過しますが、大統領が拒否権を行使、事態は泥沼と化していきました。
そんな中、第二次世界大戦が勃発、この一件は棚上げ・・・先送りとなります。
戦後、ベビーブームと共にやって来たのが国内旅行ブーム、イエローストーンやグランドティトン国立公園とジャクソン・ホール国立モニュメントのおかげで地域住民や地方自治体も観光収入が増加、反対運動もいつしか影をひそめていきました。

スネーク・リバー川辺のムース
1949年、ついに議会はロックフェラー2世が私財を投げ打って買い上げた土地をまず国立モニュメントに編入、翌50年にはその大半が国立公園に組み込まれ、現面積のグランドティトン国立公園が誕生します。(わずかに残った国立モニュメントは指定解除の後に国有林として米国森林局の管理下に置かれました)
スネークリバー・ランド・カンパニー会社設立から22年後に、やっと彼の夢が実現したことになりますね。

1972年、議会はこのロックフェラー2世の功績を讃え、イエローストーン国立公園南ゲートを経てグランドティトン国立公園北部を貫くハイウエーを「ジョン・D・ロックフェラー・ジュニア・メモリアル・パークウエー (John D. Rockefeller, Jr. Memorial Parkway)と命名しました。




8/19/2014

グランドティトン国立公園 (Grand Teton National Park) その①

映画「シェーン」のお話し


イエローストーン国立公園 (Yellowstone National Park)の南に隣接するグランドティトン国立公園は、ティトン山脈とそれを移すジャクソン・レイクとが美しい公園として知られています。
山脈の東側に広がるジャクソン・ホール (Jackson Hole)と呼ばれている平野盆地には、西部開拓時代から多くの入植者達が定住し牧場などが営まれています。
ティトン山脈とジャクソン・レイク
1929年に国立公園になるまでには地元住民や連邦政府、州政府や地方自治体などが繰り広げた長い争議の歴史がありましたが、今回はこの地を舞台に作られた名作映画「シェーン (Shane)」(1953年公開)のお話です。

この映画の中に描かれているものは、西部開拓者の中にあった旧勢力と新興開拓者との衝突、そして貧しい開拓者家族とシェーンとの人間模様でした。
流れ者ガンマンとして生きてきたシェーンがまっとうな人生を歩もうとしたのも束の間、新興開拓者達の為に再び拳銃を握り戦わざるを得なくなる。
ガンマンとしてまた多くの血を流してしまったシェーンはこの地を去って行きます。

さてこの映画に登場するライカー (Ryker)という地元の実力者とその一党。彼らは1840〜50年代にかけてこの地に入り、先住民と戦い、荒れ地を開墾していったいわば先駆者達です。西部開拓者達の旧勢力と言えましょう。
自らの血と汗で手に入れた土地は自らの物、どこに登記するまでもなく自称「私有地」という訳です。

1862年、当時の大統領リンカーンと連邦政府議会は、国民機会平等と西部開拓を目的に「ホームステッド法 (Homestead Act)」という法律を制定します。
これは、21歳以上または家長であること/土地登記料$18を支払うこと/その土地を最低5年間開墾し農業を営むことを条件に65ヘクタールの国有地を無償もしくは格安で払い下げるというものでした。
多くの新興西部開拓者達がこの法律のもと新天地を目指して行きます。
当時の西部には、未だ正式に名義の定まっていない広大な国有地があったわけですね。

シェーンがお世話になったスターレット (Starrett) 一家も、その周辺の入植者も皆このホームステッド法のお陰で土地持ちになった人々です。
一方、地元のボスとその一党にとってホームステッド法など糞食らえ・・・勝手に俺らの土地に入ってくるな・・・という訳で脅しと暴力を使った追い出しが始まります。
そんな矢先、シェーンがやって来ます。
争いが徐々にエスカレートする中、ついにライカーは殺し屋ウイルソン (Wilson)を雇いリーダー格のスターレットの殺害を企てるという筋書きでした。
クライマックスとラストシーンはご存知の通りです。
西部開拓者達が残した小屋
この映画の撮影に使用された小屋や町並みなどのセットは、残念ながら火事で焼けてしまい現在は残っていません。
スクリーンを飾ったあの俳優達のその後はどうでしょう?

主役シェーンを演じたアラン・ラッド (Alan Ladd) はその後ヒット作に恵まれず、1964年に50歳の若さでこの世を去っています。アルコールと薬物の過剰摂取が原因とのことです。
映画「シェーン」の監督ジョージ・スティーブンス (George Stevens)が、次の大作「ジャイアント (Giant)」(1956)での主役を依頼したのに断ったというお話は有名ですね。
代わりにジェームス・ディーン (James Dean)が抜擢され世界的な大ヒット映画となり、スティーブンスはこの映画でアカデミー監督賞を受賞しています。
もうひとつ、息子のデイビッド・ラッド (David Ladd)の元妻は、あの70年代のTVシリーズ「チャーリーズ・エンジェルス」の第2シリーズからファラ・フォーセット(Farrah Fawcett)の後釜を演じたシェリル・ラッド (Cheryl Ladd)です。

少年ジョーイ (Joey)役のブランドン・デワイルド (Brandon deWild)は俳優を続けますが、1972年に交通事故で不慮の死を遂げてしまいました。30歳でした。

母親マリアン (Marian)役のジーン・アーサー (Jean Arthur)はシェーンを最後に映画界から引退しました。何と撮影当時で50歳を過ぎていたそうです。見えませんよね。
ブロードウエイの舞台で復帰後、1991年に90歳でこの世を去っています。
晩年、若きメリル・ストリープ (Meryl Streep)をはじめ、多くの名優の演技指導に当たったというお話も有名ですね。

父親ジョー・スターレット (Joe Starret)役のヴァン・ヘフリン(Van Heflin)はその後も渋い脇役として数々の映画に登場しています。
71歳で亡くなる前年に公開された「大空港 (Airport)」(1970)では、機内に爆弾を持ち込む犯人役でした。確か機長をディーン・マーティン (Dean Martin)が演じていました。

最後にあの二丁拳銃の殺し屋ウイルソン (Wilson)役のジャック・パランス (Jack Palance)。
「シティー・スリッカーズ (City Slickers)」(1991)で念願のアカデミー助演男優賞を受賞。
2006年に87歳で生涯を閉じるまで、アクの強い個性的な名俳優として大活躍でした。

つづく