ナバホ・ネイション (Navajo Nation)
右からレフトミトン・ライトミトン・メリックビュート |
まずビジターセンターから見える代表的な3つのビュート(Butte・残丘) は、レフトミトン (Left Mitten・左の手袋)/ライトミトン (Right Mitten・右の手袋) /メリックビュート (Merrick Butte) と名付けられ、それぞれ東京タワーとほぼ同じ300mほどの高さがあり、ビュート間の距離は約1.6kmもあります。レフトミトンはウエストミトン (West Mitten)、ライトミトンはイーストミトン (East Mitten) とも呼ばれています。
この公園の中で唯一、一般の人々が自由に楽しめる公認トレイル「ワイルドキャット・ループ・トレイル (Wildcat Loop Trail)」を歩くと、この3つのビュートを間近に見る事ができるので時間があればお勧めです。ビジターセンターの北側にあるキャンプ場の奥にトレイルヘッドがあり、2時間もあれば一回りというコース・・・モニュメントバレーの魅力を足で体験できます。
ナバホ族居留地は、アリゾナ州北東部/ユタ州南部/ニューメキシコ州北西部にまたがる全米最大の7万1,000㎢の面積 (北海道とほぼ同じ) を誇り、人口も30万人と全米最多です。
*チェロキー族が28万5,000人、スー族が13万人で2位と3位の人口
ジョン・ウェインのブーツ |
西部開拓時代、開拓者との熾烈な争いの果てに、先住民ネイティブ・アメリカン達 (Native American) は米国陸軍騎兵隊 (U.S. Cavalry) の圧倒的な戦闘力に屈していきました。1830年、アンドリュー・ジャクソン大統領は「インディアン移住法 (Indian Removal Act)」を制定、アメリカ連邦政府は全米各地に居留地を定め (そのほとんどがミシシッピー川以西ですが) 、これら先住民達を強制的に移住させていったわけですが、住み慣れた土地に変わって彼らが手にしたのはまさしく不毛の地でした。
連邦政府の大義名分は「先住民達を西部開拓者の果てしない侵略から守るため、居留地を国が定め自治権を与え保護する」というもの。しかしネイティブ・アメリカン達からすれば、先祖代々受け継いで来た豊かな土地と自由を奪われることに他ならなかった訳です。
現在国内には合計310の居留地があり総面積は22万5,000㎢ (本州とほぼ同じ) になりますが、連邦政府公認の部族は565、未公認を含めると700部族以上、つまり全ての部族に居留地がある訳ではありません。大半の少数部族には居留地は与えられず、自分達の権利を主張する術は無いのです。
リンカーン大統領の命により、1864年にいったん強制的にニューメキシコ州西部へ移住させられますが、1868年にこの地に戻ることができました。その後、少しづつ居留地を拡大し1934年に現在の面積になりました。
*リンカーン大統領は「奴隷解放の父」だが、先住民族徹底排除主義者で名高く、数々の部族大虐殺を指揮している
*このナバホ族の480kmにもおよぶ強制移住は「Long walk of the Navajo」として知られている
ナバホ・ネイションの地図を見ると、所々にホピ族居留地や国有地が点在しています。またキャニオン・ディ・シェイ国立モニュメント (Canyon de Chelly N. M.) や世界文化遺産チャコ・カルチャー国立歴史公園 (Chaco Culture N.H.P.) のようにナバホ・ネイションの中にありながら連邦政府の国立公園局が管理している場所もあります。
アーティスト・ポイントから |
1920年代初頭、ナバホ・ネイション内で次々と石炭の埋蔵が確認され、それを機にトライバル政府を正式に樹立、1923年に首都をウィンドウロック (Window Rock) に置きました。大恐慌時代には不況の波が例外なく押し寄せますが、1940年代になると今度はウラニウムの鉱脈が見つかり採掘が始まりました。鉱山からの土地賃貸料収入と雇用でナバホ・ネイションの財政は次第に潤っていきますが、自然環境破壊や労働者の健康被害でその後苦しむことになってしまいます。
一方、忘れてはいけないのがモニュメントバレーを舞台とした映画やコマーシャルの数々。ジョン・フォード監督 (John Ford) が1939年に世に送り出した名作「駅馬車」を皮切りに多くの映画やコマーシャル撮影のロケ地として選ばれ、マルボロやシボレーのCMや広告は大ヒットとなりました。
そしてこのアメリカ西部大自然の絶景は一大観光ブームを呼び込み、観光産業による収益は年々増加の一途をたどっています。
1870年代、スペインからメキシコ人へともたらされた銀細工の手法はナバホの人々に受け継がれインディアン・ジュエリーが生まれました。また羊毛から作られる織物「ナバホ織り」や砂絵などのこれら工芸品には高い芸術性が認められ、高値で売買されてます。
ノースウィンドウ |
第一次世界大戦からアメリカ軍はチェロキー族やコマンチ族の言語を暗号として利用し始めました。しかし第二次世界大戦のヨーロッパ戦線では、ヒトラーが莫大な予算をかけてネイティブ・アメリカン言語の暗号の解読に挑んでおり、それを危惧したアメリカ軍は、ノルマンディー上陸以降は対日本軍の太平洋戦線でのみナバホ族の言語を特殊な暗号にして使用することになります。1942年、ナバホ族の青年29名により「ナバホ・コード・トーカーズ (Navajo Code Talkers)」という暗号部隊が結成されました。文字を持たず発音が複雑なナバホ語と英単語を組み合わせた暗号は、訓練されたコード・トーカーが特殊な暗号表を使わないと読めず、最後まで日本軍に解読されることはありませんでした。終戦までの間に約400名のコード・トーカーが対日諜報活動で活躍、アメリカ軍を勝利に導きました。
かたや日本軍の暗号は、ご存知のようにいとも簡単に解読されていました。何と開戦当初の軍部や外務省の電話回線では「早口の薩摩弁」を暗号として使ったそうですが、傍受した日系米兵にすぐにバレてしまったという記録が残っています。
紀元前3万年頃、陸続きだったベーリング海峡を渡りアメリカ大陸各地に定住していった先住民の祖先達は、我々日本人と同じモンゴロイドだと言われています。彼らナバホ族の言葉がこの戦いの勝敗を分ける一翼を担ったと考えると皮肉なものです。
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