4/24/2015

モニュメントバレー (Monument Valley)

ナバホ・ネイション (Navajo Nation)


アメリカの大自然を象徴するアイコンとして知られるモニュメントバレーは、正式にはモニュメントバレー・ナバホ・トライバル・パーク (Monument Valley Navajo Tribal Park) 呼ばれ、広大なナバホ族居留地 (Navajo Tribal Reservation) の中にある面積約371㎢の自然公園です。


右からレフトミトン・ライトミトン・メリックビュート

まずビジターセンターから見える代表的な3つのビュート(Butte・残丘) は、レフトミトン (Left Mitten・左の手袋)/ライトミトン (Right Mitten・右の手袋) /メリックビュート (Merrick Butte) と名付けられ、それぞれ東京タワーとほぼ同じ300mほどの高さがあり、ビュート間の距離は約1.6kmもあります。レフトミトンはウエストミトン (West Mitten)、ライトミトンはイーストミトン (East Mitten) とも呼ばれています。
この公園の中で唯一、一般の人々が自由に楽しめる公認トレイル「ワイルドキャット・ループ・トレイル (Wildcat Loop Trail)」を歩くと、この3つのビュートを間近に見る事ができるので時間があればお勧めです。ビジターセンターの北側にあるキャンプ場の奥にトレイルヘッドがあり、2時間もあれば一回りというコース・・・モニュメントバレーの魅力を足で体験できます。
園内は一般車両の入園が許されていますが、ナバホのガイドの同行が義務付けられている箇所も多いので要注意、また未舗装の周遊路はかなりの悪路で常に砂埃が舞い、いったん雨が降るとドロドロにぬかるみます。最寄りのガイド付きツアーに参加し、ミトンズ (Mittens)/ジョン・フォード・ポイント (John Ford Point) /トーテンポール (Totem Pole) /アーティスト・ポイント (Artist Point) /ノースウィンドウ (North Window) 等の主な展望台を四輪駆動車で効率よく回ることをお勧めします。

ナバホ族居留地は、アリゾナ州北東部/ユタ州南部/ニューメキシコ州北西部にまたがる全米最大の7万1,000㎢の面積 (北海道とほぼ同じ) を誇り、人口も30万人と全米最多です。
*チェロキー族が28万5,000人、スー族が13万人で2位と3位の人口


ジョン・ウェインのブーツ
それぞれの居留地には自治権が認められていますが、これだけ大きな規模の居留地になるとネイション (Nation) と呼ばれ部族政府機関が組織されています。従ってナバホ族居留地は「ナバホ・ネイション」(Navajo Nation)と呼ばれ、独自の法律・警察機構・裁判所などを有しており、モニュメントバレーをはじめアンテロープ・キャニオン (Antelope Canyon) フォーコーナーズ (Four Corners) 等のトライバル・パークは、ナバホ・ネイション内の部族公園局が管理運営を行っています。

西部開拓時代、開拓者との熾烈な争いの果てに、先住民ネイティブ・アメリカン達 (Native American) は米国陸軍騎兵隊 (U.S. Cavalry) の圧倒的な戦闘力に屈していきました。1830年、アンドリュー・ジャクソン大統領は「インディアン移住法 (Indian Removal Act)」を制定、アメリカ連邦政府は全米各地に居留地を定め (そのほとんどがミシシッピー川以西ですが) 、これら先住民達を強制的に移住させていったわけですが、住み慣れた土地に変わって彼らが手にしたのはまさしく不毛の地でした。
連邦政府の大義名分は「先住民達を西部開拓者の果てしない侵略から守るため、居留地を国が定め自治権を与え保護する」というもの。しかしネイティブ・アメリカン達からすれば、先祖代々受け継いで来た豊かな土地と自由を奪われることに他ならなかった訳です。
現在国内には合計310の居留地があり総面積は22万5,000㎢ (本州とほぼ同じ) になりますが、連邦政府公認の部族は565、未公認を含めると700部族以上、つまり全ての部族に居留地がある訳ではありません。大半の少数部族には居留地は与えられず、自分達の権利を主張する術は無いのです。

ナバホ族は西暦1300〜1400年代、古代先住民アナサジが消滅した後に北東部からやって来てこの地に住み着いたと言われています。すなわちナバホ・ネイションはもともと彼らの土地でした。
リンカーン大統領の命により、1864年にいったん強制的にニューメキシコ州西部へ移住させられますが、1868年にこの地に戻ることができました。その後、少しづつ居留地を拡大し1934年に現在の面積になりました。
*リンカーン大統領は「奴隷解放の父」だが、先住民族徹底排除主義者で名高く、数々の部族大虐殺を指揮している
*このナバホ族の480kmにもおよぶ強制移住は「Long walk of the Navajo」として知られている

ナバホ・ネイションの地図を見ると、所々にホピ族居留地や国有地が点在しています。またキャニオン・ディ・シェイ国立モニュメント (Canyon de Chelly N. M.) や世界文化遺産チャコ・カルチャー国立歴史公園 (Chaco Culture N.H.P.) のようにナバホ・ネイションの中にありながら連邦政府の国立公園局が管理している場所もあります。


アーティスト・ポイントから
貧しい生活を強いられた多くの先住民ネイティブ・アメリカン達の中で、ナバホ族はある意味では幸運でした。彼らの居留地の下にはたくさんの天然鉱物が眠っていたのです。
1920年代初頭、ナバホ・ネイション内で次々と石炭の埋蔵が確認され、それを機にトライバル政府を正式に樹立、1923年に首都をウィンドウロック (Window Rock) に置きました。大恐慌時代には不況の波が例外なく押し寄せますが、1940年代になると今度はウラニウムの鉱脈が見つかり採掘が始まりました。鉱山からの土地賃貸料収入と雇用でナバホ・ネイションの財政は次第に潤っていきますが、自然環境破壊や労働者の健康被害でその後苦しむことになってしまいます。
一方、忘れてはいけないのがモニュメントバレーを舞台とした映画やコマーシャルの数々。ジョン・フォード監督 (John Ford) が1939年に世に送り出した名作「駅馬車」を皮切りに多くの映画やコマーシャル撮影のロケ地として選ばれ、マルボロやシボレーのCMや広告は大ヒットとなりました。
そしてこのアメリカ西部大自然の絶景は一大観光ブームを呼び込み、観光産業による収益は年々増加の一途をたどっています。
1870年代、スペインからメキシコ人へともたらされた銀細工の手法はナバホの人々に受け継がれインディアン・ジュエリーが生まれました。また羊毛から作られる織物「ナバホ織り」や砂絵などのこれら工芸品には高い芸術性が認められ、高値で売買されてます。


ノースウィンドウ

第一次世界大戦からアメリカ軍はチェロキー族やコマンチ族の言語を暗号として利用し始めました。しかし第二次世界大戦のヨーロッパ戦線では、ヒトラーが莫大な予算をかけてネイティブ・アメリカン言語の暗号の解読に挑んでおり、それを危惧したアメリカ軍は、ノルマンディー上陸以降は対日本軍の太平洋戦線でのみナバホ族の言語を特殊な暗号にして使用することになります。1942年、ナバホ族の青年29名により「ナバホ・コード・トーカーズ (Navajo Code Talkers)」という暗号部隊が結成されました。文字を持たず発音が複雑なナバホ語と英単語を組み合わせた暗号は、訓練されたコード・トーカーが特殊な暗号表を使わないと読めず、最後まで日本軍に解読されることはありませんでした。終戦までの間に約400名のコード・トーカーが対日諜報活動で活躍、アメリカ軍を勝利に導きました。
かたや日本軍の暗号は、ご存知のようにいとも簡単に解読されていました。何と開戦当初の軍部や外務省の電話回線では「早口の薩摩弁」を暗号として使ったそうですが、傍受した日系米兵にすぐにバレてしまったという記録が残っています。
紀元前3万年頃、陸続きだったベーリング海峡を渡りアメリカ大陸各地に定住していった先住民の祖先達は、我々日本人と同じモンゴロイドだと言われています。彼らナバホ族の言葉がこの戦いの勝敗を分ける一翼を担ったと考えると皮肉なものです。


4/06/2015

ブライスキャニオン国立公園 (Bryce Canyon National Park)

大自然の壮大な営みの中で、他に類を見ないこの不思議な景観はどのようにして作り上げられたのでしょうか。
このあたり一帯は太古の地殻の変動と氷河期の周期により、内海の海底に沈んだり、陸地に隆起したり、淡水湖の湖底になったりと様々に変化しながら土砂が堆積し地層が形成されていきました。ここブライスキャニオン国立公園 (Bryce Canyon National Park) に見られる地層は、ザイオン国立公園 (Zion National Park) の最上部のカーメル石灰層よりも新しいクラロン層 (Claron Formation)という鉄分を多く含む石灰と砂の石化層がほとんどです。その鉄分が酸化することによりピンク色に見える訳です。
クラロン層は約4,000〜5,000万年前に巨大な湖の底に堆積したものと考えられています。上部の地層が浸食され、むき出しになったクラロン層に雨や雪解け水などの水分がしみ込んでいきますが、水がはけた後のこの層は圧力が一気に抜けてスカスカで非常にもろくなっています。もろいゆえに浸食に弱く、実際に現在の奇妙な地形になるまでに200万年もかかっていないそうです。


ブライスキャニオン国立公園
さて約2,000〜1,000万年前にかけて隆起したコロラド高原(Colorado Plateau) ですが、アリゾナ州北部からユタ州南部にかけては、北に向って下がるように傾斜しています。この傾斜によって巨大な階段状の地形が形成されており、これをグランド・ステアケース (Grand Staircase)と呼んでいます。グランドキャニオンがそのいちばん南側ににあり、グランドキャニオンの最上部の地層がザイオンの最深部の地層、ザイオンの最上部の地層がブライスキャニオンの一番下の地層となっており、ブライスキャニオンがグランド・ステアケースの一番上の最も新しい地層部分に位置しているということになるのです。
ちなみに、コロラド高原はアリゾナ・ユタ・コロラド・ニューメキシコの四州にまたがる面積337,000㎢ほどの大平原で、日本よりやや小さいといったサイズです。

ちょうどブライスキャニオンの上部はポーンソーガント台地 (Paunsaugunt Plateau) と呼ばれており、その東側にあるピンククリフス (Pink Cliffs)という断層面の一部にブライスキャニオン国立公園内の尖塔群が見られ、これがグランド・ステアケースの上から一段目。順に下って二段目の断層はグレークリフス (Gray Cliffs) 、三段目がホワイトクリフス (White Cliffs) でザイオン国立公園ではこのふたつの断層面が見られます。さらに下って四段目がバーミリオンクリフス (Vermillion Cliffs) であのバーミリオンクリフス国立モニュメントがあり、その下が五段目のチョコレートクリフス (Chocolate Cliffs) でこれが階段の一番下となります。そのまま南下するとカイバブ台地 (Kaibab Plateau) がやや盛り上がりグランドキャニオンへと続きます。(下図参照)


グランド・ステアケース断面 by National Park Service
ブライスキャニオン国立公園の尖塔群・フードゥー (Hoodoo) は、ピンククリフスに露出した非常にもろいクラロン層の断面が、雨や風雪などの浸食を受けて作り上げられました。
雨水や雪解け水が岩の割れ目に入り込み、凍結することで120%も膨張します。これにより弱い部分の岩が剥がれ落ちる現象がこの奇岩を生む一番の原因とされています。
フードゥーには実に様々な形状が見られ、中には60mほどの高さに達するものもあります。


フードゥー
かつてここに生活していた先住民パイユーテ族 (Paiute) の古い言い伝えによると、大昔この地には「レジェンド・ピープル」(Legend People・伝説の民)と言われる動物から人間に自由に姿を変えることができる不思議な生き物がいたそうです。普段は人間の姿をしていたのですが実は獣や鳥の化身でした。しかしこのレジェンド・ピープルが人間を騙し悪事を働くため、ついに神々の中でも特に狡猾なコヨーテ神シナワバ (Sinawaba〜God Dogとも呼ばれる) でさえも見るに見かねて、変身する瞬間に彼らを石に変えてしまったというのです。時間の変化によってフードゥーの色、影の位置や濃淡が変わっていくと確かにそんな気がしてきます。
*西側のリムが夕陽をさえぎるので、夕景を楽しむには日没の1時間以上前にスタンバイすること

面積は145㎢と小ぶりですが、全米の国立公園の中で最も暗い夜空を望めるブライスキャニオンは、1928年の国立公園認定以前から天然のプラネタリュームと言われてきました。
もう一つ、パイユーテ族の「星にまつわる」伝説をご紹介しましょう。日本では昴 (すばる)と呼ばれているプレアデス星団 (Pleiades) の7つの星は、父親の言い付けに背いたパイユーテの7人姉妹が天空から降りられなくなった・・・というもの。ギリシャ神話のアトラスの7人姉妹のお話しとよく似ています。ちなみに、このプレアデス星団は牡牛座の中にありますのですぐに見つかります。月あかりの無い夜は、ぜひ渓谷のリムから満天の星空をお楽しみください。


3/27/2015

バーミリオンクリフス国立モニュメント (Vermillion Cliffs National Monument)

ホワイトポケット(White Pocket)


アメリカ西部にも秘境と呼ばれている地域がまだまだありますが、そのひとつがバーミリオンクリフス国立モニュメント (Vermillion Cliffs National Monument)。
アリゾナ州北部、ちょうどグランドサークルのほぼ真ん中に位置し、北側にパライア渓谷 (Paria Canyon)、東側から南側にかけてバーミリオンクリフスの絶壁、西側にコヨーテ・ビュート群 (Coyote Buttes)、そして中央部にパライア平原 (Paria Plateau)を有する面積1,189㎢の未開の地です。   
*National Monumentは日本でいわれる国定公園ではなく国立モニュメントと訳します


ホワイトポケット
バーミリオンは「朱色」、クリフスは「崖」ということですので直訳すると「朱色の崖」となりますが、実際は朱色と白色の地層が複雑に入り組んだ岩山が林立する不思議な地形で、ここ数年注目を集めています。
しかしながら、国立モニュメント内の道路は未舗装のうえ、その殆どがデコボコの悪路、車高の高い四輪駆動車以外でのアクセスは困難です。
ちなみに国内の国立モニュメントは、国立公園と同じアメリカ合衆国連邦政府内にある内務省国立公園局の管轄でありながら、運営管理を同局が担っているとは限りません。
ここバーミリオンクリフスを運営管理しているのはBLM (Bureau of Land Management・連邦土地管理局)という別組織、あえて訪問者数を極端に制限することにより自然保護と保全を実現しています。従って雨が降るとデコボコで細い未舗装道は泥と深い水溜りでぬかるみ、道路標識や案内板も最小限、一般車でのアプローチが難しいことに加え (ほぼ不可能)、公衆トイレが一切設けられていません。ゴミや排泄物は全て持ち帰らなければならないのです。

もうひとつ、バーミリオンクリフス国立モニュメントで1番人気のザ・ウエーブ(The Wave)を擁するノース・コヨーテ・ビュート(North Coyote Butte)と2番人気のサウス・コヨーテ・ビュート(South Coyote Butte)を訪れるには許可証が必要で、それぞれ毎日20名づつにしか発行されません。このうち各10名づつは4ヶ月前からインターネットで申し込む事ができ、抽選結果はメールで通知されます。残りの10名づつはBLM事務所で前日に行われる抽選によって選ばれるという仕組みで、当選者は料金を支払い翌日の許可証を手にすることができるのです。
特にノース・コヨーテ・ビュートの許可証の抽選は非常に競争率が高く、オフシーズンで80倍、ピーク時ですと100倍以上の倍率とのこと、よほどの幸運に恵まれない限りほとんど入手は困難でしょう。
更にザ・ウエーブまでは、1時間半以上も四駆車で悪路を走るうえ、トレイルヘッドの駐車場から乾いた川底や岩場といった手付かずのバックカントリーを炎天下の中片道2時間以上も歩かないとたどり着けません。日陰は無くかなり足場の悪い道のりとなる訳です。
運良く許可証を入手することができても、悪路の運転や奥地までの過酷なトレッキングを個人で敢行するのはかなりのハイリスク、BLM公認ガイドの同伴をお勧めします。
*車両を持っているBLM公認ガイドも多く、彼らの許可証は不要
*1名のBLM公認ガイドで最高5名までの訪問者を案内できる規則となっている


ジャコブ・レイク・イン
バーミリオンクリフス国立モニュメントの中で唯一、人数制限が無く許可証不要で行けるのが3番人気のホワイトポケット(White Pocket)、上記のコヨーテ・ビュート群とは全く異なる白い奇岩の世界が広がっています。四駆車さえあれば誰でも行けるため近年人気上昇中ですが、それでも「秘境」・・・個人で訪れるのはやはり大変です。
今回はカナブ(Kanab)という町からBLM公認ガイドと共に南からアプローチする一般的なコースをご紹介しましょう。
クリフ西壁とカリフォルニア・コンドル放鳥の場所
朝、まずはガイドの四駆車に乗り込み出発、約45分ほどでジャコブ・レイク・イン (Jacob Lake Inn)に到着、行きも帰りもまともなトイレで用を足せるのはここだけです。すぐ先の交差点からルートを変え72km南下すればグランドキャニオン・ノースリムまで行けるのですが、我々はさらに西へと進みます。約15分走ると「バーミリオンクリフス展望台」、クリフ西壁が見えますのでちょっと停車するのも良いでしょう。鉄分を多く含むカイエンタ砂岩層が酸化して朱色に見える断層で、崖の高さが900mにおよぶ所もあるそうです。
そこから10分でBLM-1065号線へ左折、バーミリオンクリフス国立モニュメントに入りますが、いよいよここから未舗装道です。しばらく走ると「カリフォルニア・コンドル放鳥の場所」が右手にあり、ここに簡易トイレが一基ありますが国立モニュメントの看板がそのちょっと先、とにかくそこまで走りましょう。
*1996年、絶滅危惧種に指定されているカリフォルニア・コンドル 6羽が放鳥された場所


国立モニュメントの看板
BLM-1017→1087→1086と標識も読み取れないほどの分かれ道をどんどんと奥へ進みますが、後半の30分ほどがかなり険しい悪路です。乾燥していればデコボコの深い砂地、一旦雨が降れば泥地と化すロード・コンディション、慣れたガイドでもタイヤが埋まらないように慎重に運転しなければなりません。
出発から約2時間半〜3時間でホワイトポケットの駐車場に到着、もちろん公衆トイレはおろかゴミ箱すらありません。前述のようにゴミや排泄物は持ち帰るのが規則、でもこの駐車場だけは、こっそりと木陰や岩陰で用を足してもガイドも大目に見てくれます。・・・がやはり規則は規則、携帯トイレ袋を持参することをお勧めします。駐車場からも見えますが、砂地を5分歩くだけでホワイトポケットの奇岩群です。


ブレイン・ロック
今から1億9,000万年前、三畳紀後半からジュラ紀の後半にかけて、アリゾナ州北部一帯からユタ州・ネバダ州にかけては巨大な砂漠地帯で、現在のサハラ砂漠よりも大きかったと考えられています。その広大な砂漠の砂が石化し、大自然の浸食を受けながらこの変化に富んだ不思議な景色を形成していきました。紀元前から先住民が生活していた痕跡も多く発見されていますが、1776年に西洋人として始めてこの地に足を踏み入れたのがスペインのドミンゲス・エスカランテ探検隊 (Dominguez - Escalante Expedition)だと言われています。
2000年11月、クリントン大統領がこの地を国立モニュメントに指定、BLMの管理下に置きました。
ザ・ウエーブには波状のフォーメーションが、そしてここホワイトポケットにはブロッコリーの頭のようなブレインロック(Brain Rock)をはじめ、渦巻き状の奇妙な地層までバラエティーに飛んだ地形が展開しています。遊歩道は無く足場の悪い所も多いので要注意ですが、ゆっくり歩いても1時間半から2時間もあればひと回りです。

帰路は悪路を揺られながら同じルートをたどり戻りますが、「カリフォルニア・コンドル放鳥の場所」でトイレ・ストップを取っても良いかもしれません。最後にジャコブ・レイク・インで休憩し夕刻カナブに帰着です。天気やロードコンディションにもよりますが、全体で7〜8時間の行程です。


3/18/2015

デスバレー国立公園(Death Valley National Park)

動き回る石の謎


デスバレー国立公園 (Death Valley National Park)はカリフォルニア州南西部・ネバダ州との州境に位置し、アラスカ州を除くと総面積13,518㎢を誇る全米一大きな国立公園です。
また北米大陸で最も標高が低い海抜下86mの塩湖から3,368mの高山までを有する、アメリカで最も暑く最も乾燥した、夏には気温50℃を超える事もある灼熱の地です。
*ちなみにアラスカ州のデナリ国立公園 (Denali National Park)は面積24,585㎢

ザブリスキー・ポイント

この過酷な自然環境は、気の遠くなるような長い時間をかけて形成されたもので、非常に複雑な地形が見られます。最も古い地層は約17億年前の変成岩で、古代の海の浅瀬に堆積した泥や砂が石化したもの、その後太平洋プレートと北米大陸プレートの摩擦で火山帯が形成され、隆起と伸張が何度も繰り返されて現在のような幻想的な地形が生まれました。このあたりには紀元前8,000年頃から先住民が生活していたことが解っていますが、最後の氷河期が終わった頃に人類の定住が始まったと言われています。今は完全に干上がってしまいましたが当時はデスバレーをほぼ埋め尽くすほどの巨大な湖が点在し、気候は現在より大幅に涼しく比較的に温暖で、狩猟の対象となる動物もたくさんいたようです。紀元前3,000年〜西暦元年には、メスキート・フラット族やサラトガ・スプリング族が生活していましたが、気候の変化でこの地域の温暖化・砂漠化が進み、それに伴い彼らもネバダ州の南部まで移動して行きました。高温・乾燥化がどんどんと進む中、現在もこのデスバレーに住み続けているティンビシャ・ショショニ族の祖先が西暦1,000年頃に遊牧民としてやって来たと言われています。


ゴールデンキャニオン
1848年、カリフォルニア州コロマで砂金が発見され、翌年から始まったゴールドラッシュがきっかけとなりデスバレーに西部開拓者が足を踏み入れる事になります。誰よりも早く金鉱を探そうと企てたベネット・アーケイン移民団 (Bennett - Arcane Party) が、100台ほどの馬車とともに近道をしようとこの巨大な谷に迷い込んでしまったのです。彼らは数週間もの間この谷を彷徨い続け、酷暑と水不足・食料不足と戦いながらやっとの思いで谷から脱出することができました。
命からがら谷から脱出した直後に団員のひとりが「Good by Death Valley !」と言ったとか・・・これがデスバレーの名前の由来とされています。
以来、毎年何人もの人々が命を落としている「死の渓谷」ですが、このゴールドラッシュによりデスバレー付近でも金が見つかり、いくつもの町が生まれては消えていきました。ゴールドラッシュは一時的なブームで終わりを告げましたが、その後発見された硼砂 (ホウ酸ナトリウム)の採掘がこの地域に長期的な利益をもたらします。硼砂は石鹸やガラス加工の原料として多用され、特に耐熱ガラスの生産には欠かせません。
デスバレーは1933年に国定公園に指定、その後1994年に国立公園に認定されました。

レーストラックで動き回る石
このデスバレー国立公園で世界的な「謎」と言われていたのが「石が自然に動き回る」現象です。園内のレーストラック (Racetrack) と呼ばれるかつては湖底だったという干上がった台地の所々に大小様々な石があるのですが、これが引きずったような跡を残しながら動いているのです。大きな石の中には直径1m前後といったものもあります。場所によっては複数の石が同じ方向に動いていますし、また近くにある同じような石でも動くものと動かないものがあったり、動く距離や方向も異なるなど詳しい原理は謎のままでした。
また「動く石」は地面に軌跡を残すことから移動したことは明らかですが、数年に一度という間隔でしか動かないため観測はきわめて難しいと言われていました。
過去数十年、この「謎」の現象には様々な解明が試みられてきました。強風説や氷結説、中にはUFO説まで唱えられましたがあくまで仮説、実際に石が動いている現場を見た者は誰もいませんでした。

2011年冬、NASAに属する研究機関Scripps Institution of Oceanographyのリチャード・ノリス (Richard Norris) が率いる調査隊が観測所を設置、この謎の解明に挑みます。
まず、動くと電源が入るモーションセンサー付きの小型GPSを組み込んだ15個の石を用意、レーストラックの各所に置きました。国立公園内の石にGPSを付けることは許可されていないためです。当初5〜10年の調査期間を想定していたそうですが、2年後の2013年12月、ついに「石」が動く様子を観測、動画にも記録することに成功します。
ノリス達は「石は氷に押されて移動している」ことを突きとめたのです。
そのメカニズムは・・・
① デスバレーの冬の雨期、台地が池になる
② 夜間の冷え込みで池の水が凍る
③ 日が昇り気温が上がると氷が溶けて割れる
④ 割れた氷の断片が強風に吹かれ池の上を移動する
⑤ この氷の断片が、同時に石を押して移動させる
⑥ 池の水が干上がると石が移動した痕跡だけが残る
観測では石の移動速度は分速2〜6m、石によっては60m以上も動いたものもあるそうです。
またこの調査により、石が動くための条件も明らかになりました。


石が動くためには・・・
① 台地が池になるほどの降雨と凍結
② 秒速3〜5mほどの風
③ 風で移動できる程度の厚さ3〜5mmほどの氷の断片
④ 氷の断片が自由に動け、また石を押すのに適切な7cmほどの水深
*池が深過ぎると氷が石の上を通過してしまうので
こうして調査隊いわく「史上最も退屈な実験」により「動き回る石の謎」は解明されたのでした。